キシモトファンのみなさん、こんにちは!

どこかで聞いたことがあるようなタイトルですが、私の母方の祖母の話です。

ヤバいばあちゃんは昔、たいそう美人だったそうで、町の写真館に自分の写真が飾られたことをしょっちゅう自慢していました。

夫だったじいちゃんも中々ファンキーで、ばあちゃんはもちろん、従業員やご飯を食べに行った飲食店の店員に怒鳴りつける光景を何度も目にしました。

織田作之助も愛したという大阪の名物カレー屋さん、自由軒難波本店の常連だったじいちゃんは、何が気にくわなかったのか、ある時店員と大喧嘩し、それ以降実質出禁になったみたいです。



小学校の時に神戸市のポートアイランドで開催された、神戸ポートアイランド博覧会(愛称・ポートピア’81)に行った時の事です。



三宮から会場にいくのにポートライナーという電車に乗るのですが、あまりにも人が多すぎてまったく乗れないので、じいちゃんがキレて、会場まで神戸大橋を海を渡って歩いていきました。
片道約4km、1時間の道のりです。

神戸大橋は、まあまあ高くて大きい橋です。何せ海を渡るのですから。



帰りも当然ポートライナーには乗れないので、歩きです。

香川の山奥で育ったじいちゃん(71)はピンピンしていましたが、さすがにばあちゃん(56)はその夜、疲労で入院しました。

そんなじいちゃんと50年以上も連れ添ったばあちゃんですから、ヤバさは半端ではありません。

塩より塩辛い塩鮭と、塩の固まりかと思うほど塩辛い焼きたらこを愛してやまず、最高血圧は200オーバー、酒もタバコもガンガンいく人でした。

90歳になっても、ココイチのビーフカツカレー(現在は取り扱いなし)200gを1人で完食する元気さでした。


そんなヤバいばあちゃんとの思い出の一つが、私が幼稚園時代の出来事です。

食べ終わったお茶碗にご飯粒をたくさん残しているのを見るたびに、ばあちゃんは「米を粗末にすると、目がつぶれるで!」とよく叱っていましたが、私は幼心に「そんな訳ないやん、実際見えてるし」と思う純真無垢な幼稚園児でした。

ばあちゃんは米粒が残ったお茶碗にお茶を入れて、米粒を一つ残らず食べながらお茶を飲んでいました。
まさに茶碗です。

一方、合理的な私の母親は、同じように私が米粒をたくさん残していると「1粒の米を植えたら、何粒の米ができる思てんねん。米を粗末にしたらあかん。」と叱られ、妙に納得した記憶があります。

2束の稲で約1合分の米が取れるので、たった米粒2つでお茶碗1杯分の米を捨てているのと同じことになります。

それからはそのことを少し意識するようになりました。

最近はお米の値段が上がっているので、従業員にお米を大切にしようというLINEを送る際にも、この母親のエピソードを出して説明しました。

さすがに従業員に対して「目がつぶれるから」は無いよね。


とにかくヤバいばあちゃんでしたが、コロナが猛威を振るっていた2021年。
志村けんさんが亡くなった1か月ほど後に、手術のために入院していた病院の院内感染でコロナにかかり、1週間ほどで亡くなってしまいました。

お通夜や葬式はもちろんなく、たぶん袋に詰められて病院から火葬場に直送だったのでしょう。
帰ってきたときには、骨壺に入った状態でした。

ヤバいばあちゃんのあっけない幕切れでした。


じいちゃんは、ばあちゃんが亡くなる25年ほど前に亡くなりましたが、その1か月前に脳梗塞で急に右手が動かなくなった時の事です。
ばあちゃんはいつも通り、じいちゃんが経営する会社でじいちゃんの分まで働いており、じいちゃんは家で寝ていたのですが、急に「ばあちゃんを家に連れてきて欲しい」と言い出しました。

私がそれは無理なことを伝えると、「もう50年以上連れ添ってるねん。お願いや。」と訴えるじいちゃんを前に、自分の人生よりもはるかに長い時間をともに生きてきたことを考えると、掛ける言葉がありませんでした。


ばあちゃんの納骨の日の事です。

すでにじいちゃんが眠る墓は、京都・清水寺がある五条坂を右にそれた、西本願寺の大谷本廟にあります。

墓にばあちゃんの骨壺を入れた時、2つ並んだ骨壺を見て、
「じいちゃん、寂しかったやろ。これでまた2人、一緒やなー」

そう思いながら、墓を閉じました。


お米を大切にしようと従業員にLINEを送ってから、私もご飯粒をお茶碗に残さないようにしています。
もちろん、お茶碗にお茶を入れて。